表現社Top / 市川和紙 H10.05.01更新
市川大門の和紙



 市川大門町の和紙づくりの歴史は1,000年を超えるといわれます。 905年の延喜式に甲斐国から朝廷へ紙が納められた記録があるそうです。  新羅三郎義光の三男源義清の家臣「甚左衛門」が1150年頃、都の新しい製紙技術を市川の地に導入したことで「紙明社」という祠に奉られています。  安土桃山時代中期の、1583年(天正11年)には幕府に和紙を上納しており、 その紙は美人の素肌のように白く美しいというたとえで「肌吉(はだよし)」と呼ばれ、 この地の御用紙漉き職人は肌吉衆と呼ばれたそうです。  1827年(文政10年)10月から翌年5月までの間には、幕府から 市川大門村の肌吉衆7人に、90万枚もの紙が発注されていたそうです。
 現在、当時の面影を残す屋敷は1軒のみとなりました。
 また、手漉きを続ける家も1軒となり、多くは機械漉きの 障子紙・寺社用紙・書道用紙の製造工場です。
 1996年(平成8年)には、甲斐源氏の発祥の地、平塩岡(ひらしおのおか) に碑林(ひりん)公園が完成しました。
 中国一級の国宝を、現存の破損部分は拓本より復元し、 中国西安碑林博物館の技術をもって作成された、 歴代の14基の名碑が自然の丘陵に配置されています。
 拓本を体験できるコーナーがあります。
 


大門碑林公園


リンク
和紙(わし)「山梨の産業に関する資料の紹介」/甲州文庫/山梨県立図書館

参考資料:市川和紙のしるべ/市川和紙工業共同組合
書道用品・表現社